買ってはいけない報道写真「戦場カメラマン」という仕事

少し昔になりますが戦場カメラマンの渡部陽一さんがバラエティー番組に出演をしている時期がありました。

渡部陽一さんはその独特の語り口で、戦場カメラマンの存在を広めた個性的な方ですね。

戦場が仕事場の戦場カメラマン、渡部陽一さんの信条は「戦場カメラマンは生きて帰ること」だそうです。

本当にその通りだと思います。

報道写真の中の戦争

もう数十年も前になるでしょうか。

図書館でみた確か『ベトナム戦争の記録』というような題名がついた冊子。

分厚くて重い冊子でした。

その冊子にはニュースで報道されたこともあったアメリカの高官のような人が、捕らえたベトナム人を射殺する場面の他、惨たらしい写真の数々が解説付きで掲載されていました。

思い返してみてもとても胸が痛む・・・手に取ったことを後悔するような残酷な内容でした。

(図書館には報道写真や紛争・戦争を記録した写真集などもありますが、おそらく個人的にはあまり買うことはないでしょう)

ベトナム戦争の冊子をパラパラと見終わって何気なくあとがきを見たとき、心に突き刺さった言葉がありました。

「目を背けてはいけない」か「目をそらしてはいけない」と、いうような言葉だったと思います。
「未来は変えられる」とも書いてあったと思います。

その言葉が私の気持ちを見透かすように胸に響いたのです。

ベトナム戦争という過去の残酷な紛争から遠く離れた現代の安全な所に住む自分。
嫌なものは見ずに知らないことでなかったことにしていることに、【それではいけない】と、この冊子が訴えていたように思いました。

鴨志田穣さんの撮った写真

鴨志田穣(ゆたか)さんは戦場カメラマンとして紛争地帯を取材した方ですが、私は偶然この方を知りました。

当時の奥様、漫画家の西原理恵子さんのイラストが印象的で、ご夫婦でアジアの各地を巡った紀行シリーズ本が面白おかしくて楽しめました。

でも戦場カメラマンとしての活動で、紛争を目の当たりにして心を病んだ鴨志田穣さんはアルコール依存症を発症します。入退院を繰り返し、果ては腎臓癌で若くして亡くなりました。

私は鴨志田穣さんの写真をよくは知りませんが唯一、読んだ本の中にあったどこかの国の子供たちを撮った写真が心に残っています。

何というかとても優しい人が撮った写真だと感じたのです。

その優しさが心の病を招いたのかなぁと思ったりしたものです。

宮嶋茂樹さんの写真

宮嶋茂樹さんは写真週刊誌「フライデー」のカメラマンからフリーのカメラマンに転身して今も活躍されています。

「週刊文春」ではちょくちょく話題の現場をスクープし、写真と共に宮嶋茂樹さん自身の文章も掲載されます。

その文章は軽快でユーモアと風刺にあふれていて読むのが楽しみです。

紛争地帯での写真でちょっとインパクトの強いものを見たことがありますが、今も現役で活躍されていることを嬉しく思います。

命がけの現場では、強い精神力がなければとても務まらないでしょう。

沢田教一さんが撮影した写真

沢田教一さんはベトナム戦争下で撮った写真「安全への逃避」がピューリッアー賞を受賞するなどとても有名な戦場カメラマンです。

胸まで浸かりながら大河を必死の形相で子供たちと渡る母親の姿は写真を見るだけで強烈な「生きる意味」を投げかけて来ます。

受賞した写真とは裏腹ですが沢田教一さんは従軍記者としての仕事の他に戦禍で暮らす普通の人々を撮りたかったそうです。

残念なことに沢田教一さんはカンボジアで銃撃され34歳の若さでこの世を去っています。

一ノ瀬泰造さん

『地雷を踏んだらさようなら』という言葉が有名で一ノ瀬泰造さんの生涯が書籍や映画になっていますね。

一ノ瀬泰造さんはカンボジア内線下、取材先のアンコールワットで行方不明になったと記憶していましたが、クメールルージュの捕虜となり処刑されていたのですね。

当時のカンボジア内線は映画「キリングフィールド」で知ることができますが意味もなく沢山の人が殺された恐ろしい歴史のひとこまです。

一ノ瀬泰造さん自身の写真を見た時、こんなに若い人が使命感をもって戦場に向かったのかと思いました。

とても繊細で優しそうでけだるそうな表情を思い出します。

写真が語る意味

『報道写真や戦争の記録を買ってはいけない』と思うのはあまりにも私たちの現実とかけ離れた世界がそこにはあって、メンタルがやられてしまう恐れがあるからです。

テレビや動画配信サービスでは、見たくない番組はチャンネルを変えることが出来ます。

けれど「知ること」が大事なこともあります。

「知ること」「気づくこと」も大切な生きる意味ではないかと思うのです。

子供の頃(おそらく10歳前頃)に「スカボローフェア」の曲で始まる映画の時間があり、そこで見た映画がとても強く記憶に残りました。

大人になってその映画がアンジェイ・ワイダ監督の「地下水道」というポーランド映画だったことが分かりました。

地下水道 (映画)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
 
 

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地下水道
Kanał
監督 アンジェイ・ワイダ
脚本 イェジ・ステファン・スタヴィンスキー
音楽 ヤン・クレンツ
撮影 イェジ・リップマン
配給 日本の旗 NCC日活
東洋映画[1]
公開 ポーランドの旗 1957年4月20日
日本の旗 1958年1月10日
上映時間 95分
製作国 ポーランドの旗 ポーランド
言語 ポーランド語
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地下水道』(ちかすいどう、原題:Kanał)は、1956年制作のポーランド映画

アンジェイ・ワイダの名を一躍世界に知らしめた作品で、第10回カンヌ国際映画祭審査員特別賞を受賞した[2]。『世代』に次ぐいわゆる「抵抗三部作」の2作目として知られる。

映画はレジスタンス活動をする人たちが地下水道の中を逃げて出口を目指すのですが、結末まで全てが「救いがない」内容なのです。

映画自体が「絶望」を表しているようで、ラストシーンの意味もワイダ監督の著書で後に分かりました。

希望も救いもない映画が今も心に痛烈に残っています。

戦場で命をかけて撮った写真の中には「救いも希望もない」思いに囚われるものもあります。

ですがそこで暮らす人たちの何気ないひとコマがあったりして、救われる思いもするのです。

きっと戦場カメラマンの方たちにとっても、そんなひとコマは数少ない安らぎなのではと思います。

戦禍の現実を知ることは辛いことではありますが、これからを変えるために多くの人が知るべきでもあります。

写真が語る意味はとても大きいです。

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